日本における白系ロシア人史の断章
―プーシキン没後100年祭 (1937年、東京)―

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  1. Мамонов А. И. Пушкин в Японии. М.: Наука, Главная редакция восточной литературы, 1984. 326 с.
  2. 1999年5月10日に群馬県吾妻郡草津温泉町在住のK. M. トルシチョーフ氏から電話で行った聞き取り調査による。なお本プログラムも氏のご好意により拝見することができた。
  3. 浅岡宣彦編「プーシキンの年譜」國本哲男・法橋和彦編『プーシキン生誕180年記念論集』所収、ナウカ、1981年、90頁。
  4. ロシア語名は "Русское национальное общество эмигрантов в Японии"、英語名は "The National Soci-ety of Russian Emigres in Japan"。
  5. 倉田有佳「二つの大戦間の亡命ロシア人社会-在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会-」『ロシア史研究』62、1998年3月、36、39頁。
  6. 『内務省統計報告 第50巻 昭和11年』日本図書センター、1990年、282頁;『日本帝国第五十六統計年鑑』内閣統計局、1937年、76-77頁。
  7. ロシア語名は "Общество взаимопомощи русских эмигрантов на ос. Хоккайдо"
  8. ロシア語名は "Эмигрантское объединение"
  9. ロシア語名は "Монархический союз" か。
  10. ロシア語名は "Благотворительное дамское общество" もしくは "Дамский благотворительный кружок вКобэ"
  11. 内務省警保局編『極秘外事警察概況 第3巻 昭和12年』龍渓書舎、1980年、149-170頁。
  12. 『特高警察関係資料集成』第16巻、不二出版、1992年、269頁。
  13. 『極秘外事警察概況 第2巻 昭和11年』1980年、177頁。
  14. ロシア語名は "Комитет Русского общества в Японии" もしくは "Русское общество в Японии"
  15. ロシア語名は "Объединенный комитет русских эмигрантских обществ в Японии"
  16. 『特高警察関係資料集成』第15巻、1992年、70頁。
  17. Хисамутдинов А. А. К истории русской эмиграции в Японии. 1918 - 60-е годы. Неопубликованная статья. С.37.
  18. 「外事警察より観たる日露関係」内務省警保局編『特秘 外事警察法』31、1925年1月。復刻版、第3巻、不二出版、1987年、25-27頁。
  19. 『特高警察関係資料集成』第16巻、52-53頁。
  20. 外務省外交史料館所蔵、外秘第2846号、昭和10年12月16日付、「旧露国人ノ動静ニ関スル件」;外秘第22号、昭和11年1月8日付、「旧露国人ノ動静ニ関スル件」。
  21. 『地域史研究 はこだて』28、1998年9月、16-29頁。
  22. 『特高警察関係資料集成』第16巻、269頁。
  23. 『特高警察関係資料集成』第17巻、1992年、152-153、158頁。
  24. 『極秘外事警察概況 第1巻 昭和10年』1980年、276頁。
  25. 『極秘外事警察概況 第2巻 昭和11年』177-178頁。
  26. 『極秘外事警察概況 第3巻 昭和12年』157-158、166-167頁。
  27. 『極秘外事警察概況 第4巻 昭和13年』1980年、141-142頁。
  28. 『極秘外事警察概況 第5巻 昭和14年』1980年、125頁。
  29. 神奈川県警察部外事課『支那事変下ニ於ケル外事警察ノ一般情況』(1939年3月末)『特高警察関係資料集成』第17巻所収、475、476頁。
  30. 『極秘外事警察概況 第6巻 昭和15年』1980年、226頁。
  31. 『極秘外事警察概況 第8巻 昭和17年』1980年、341頁。
  32. 田中陽児・倉持俊一・和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史3 20世紀』山川出版社、1997年、226、243 頁、「年表」46頁。
  33. Васильков Я.В., Гришина А.М., Перченок Ф.Ф. Репрессированное востоковедение. Востоковеды,подвергшиеся репрессиям в 20-50-е годы // Народы Азии и Африки. 1990. 4. С. 113-125; 5. С.96-106.
  34. ユリヤ・ミハイロワ「スターリン時代の日本学者」『窓』78、1991年10月、44-45頁。
  35. 原暉之『ウラジオストク物語 ロシアとアジアが交わる街』三省堂、1998年、318-321、「ウラジオストク略年表」(3)頁。
  36. ヴェ・ブブノーワ「戦時下日本での私達」『世界』116、1955年8月、45頁。
  37. 白浜研一郎『七里ケ浜パヴロバ館 日本に亡命したバレリーナ』文園社、1986年、186頁;大野芳『瀕死の白鳥 亡命者エリアナ・パブロバの生涯』新潮社、1999年、369頁。
  38. 佐藤俊子『「北国からのバレリーナ」−オリガ・サファイア−』霞ヶ関出版、1987年、60-61頁。
  39. 川又一英『大正十五年の聖バレンタイン 日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』PHP研究所、1984年、131-132頁。
  40. 『特高警察関係資料集成』第17巻、22、29、47頁。
  41. 折蛾 井上満 遺稿と追想』井上満遺稿集・追悼録刊行委員会、1973年、451頁。
  42. 米重文樹「精神の旅人・嶋野三郎(14)-二・二六以後-」『窓』107、1998年12月、42頁。
  43. 『正教時報』26-1、1937年1月、21-25頁。
  44. 大橋秀雄『ある警察官の記録 戦中・戦後30年』みすず書房、1967年、62-66頁;森山啓「雑誌『文学評論』をめぐる思い出」『窓』50、1984年9月、7頁。
  45. Шляпин А. Русский Пушкинский вечер в Кобэ // Рубеж. 6 марта 1937 г. С.16.
  46. Хисамутдинов. Указ. соч. С.30.
  47. 「けふの天気 北の風後南東の風朝霧垂れて曇り薄陽もさすが夕方から小雨が降り温度昇る、晩は南東の風雨後雪となる」(『読売新聞』朝刊、1937年2月11日、第7面 )。
  48. 永井荷風『断腸亭日乗 四』岩波書店、1980年、137頁。
  49. Хисамутдинов. Указ. соч. С.8.
  50. 瀬沼恪三郎「府主教セリギイ師の略歴」『正教時報』22-7、1933年7月、7-11頁。
  51. 長縄光男「ニコライ堂の復興を巡って-セルギィ大主教の働きを中心として-」『異郷』2、1998年5月、5-6頁。
  52. 外務省外交史料館所蔵、外秘第3091号、昭和5年9月5日付、「セルゲイ大主教ノ言動ニ関スル件」。
  53. 外務省外交史料館所蔵、外秘第4283号、昭和5年12月10日付、「セリギィー大主教入僧三十五年記念祝賀会開催状況ニ関スル件」。
  54. 外務省外交史料館所蔵、外秘第1014号、昭和6年4月20日付、「「セルギイ」大主教ノ言動ニ関スル件」。
  55. 倉田「二つの大戦間の亡命ロシア人社会-在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会-」40頁。
  56. 外務省外交史料館所蔵、外秘第1206号、昭和7年7月26日付、「在留旧露国人ニ関スル件」。
  57. 長縄光男「日本の府主教セルギイ・チホミーロフ小伝」坂内徳明・栗生沢猛夫・長縄光男・安井亮平編『ロシア 聖とカオス 文化・歴史論叢』所収、彩流社、1995年、409-429頁。
  58. ご本人のお話による。
  59. 長縄「日本の府主教セルギイ・チホミーロフ小伝」411頁による。筆者未見。
  60. Освящение воскресенского кафедрального собора в Тоокёо [sic]. Per Crucem Ad Pacem. 1930. 32 с.
  61. Двенадцать святых апостолов. К вопросу о примате апостола Петра. Париж: Изд. Y. M. C. A.-Press, 1935.XI+409 с. 本著作は、S. P. ポーストニコフ編『ロシア人亡命の政治、イデオロギー、生活習慣、研究文献 1918-1945年 文献目録 ロシア在外歴史文書館図書館のカタログより』第1巻、ニューヨーク、「ノーマン・ロス」出版社、1993年、213頁 (Постников С. П. (сост.) Политика, идеология, быт и ученыетруды русской эмиграции 1918-1945. Библиография. Из каталога библиотеки Р. З. И. Архива. T. I. NewYork: Norman Ross Publishing Inc., 1993. С. 213.) による。筆者未見。
  62. 瀬沼恪三郎「府主教セリギイ師の新著『十二位一体の聖使徒に就いて』」『正教時報』27-6、1938年6月、5-8頁;加納一蔵「府主教座下御新著出版を促す」『正教時報』27-11、1938年11月、23-24頁。
  63. 「本会聖堂奉神礼」『正教時報』26-4、1937年4月、32頁。
  64. 現在は東京都千代田区神田美土代町7番地である。『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店、1978年、676-677頁。
  65. 斉藤実『東京キリスト教青年会百年史』財団法人キリスト教青年会、1980年、40、90、98-99、174、232頁。
  66. 『東京青年』422、1937年4月、頁付なし。
  67. 内山ヴァルーエフ紀子「哈爾濱・ロシア人住民と文化事業(四) 哈爾濱のロシア人学校-初等・中等教育編-」『セーヴェル』9、1999年6月、19頁。
  68. 倉田「二つの大戦間の亡命ロシア人社会-在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会-」45頁;『特高警察関係資料集成』第17巻、478頁。
  69. 井染禄朗(1878-1930)は1899年に陸軍士官学校歩兵科、1909年に陸軍大学校を卒業。参謀本部でロシア班の班長をつとめた。1914-1915年にペトログラード日本帝国大使館附武官補佐官として勤務し、その諜報活動の成果を『西伯利経済地理』(外交時報社、1918年) にまとめた。1919年に陸軍中佐としてシベリア出兵に加わり、ウラヂヴォストーク特務機関長をつとめた。かの地で1917年12月から邦字新聞『浦潮日報』が発行されていたが、日本陸軍の対ロシア宣伝広報紙としてそのロシア語版が出始めたのは井染の工作による。特務機関での井染の活動ぶりとロシア語版『浦潮日報』発刊の経緯については、下記樋口季一郎の回想録に詳しい。1920年にチタ特務機関長となり、満州里駅でセミョーノフ、ヴェルジュビーツキイと交渉を行っていたまさにその時に、ペトロフの汽車が到着したというわけである。この金塊引き渡し事件の後、井染は陸軍大佐に昇進した。M.グリゴーリエフの、チタから日本への出国の手引きをしたのも井染である。後に中将まで昇進。井染禄郎「軍事上より観たる日露関係」『日露実業新報』3-2、1917年2月、4頁;G. A. Lensen, Japanese Diplomatic and Consular Officials in Russia (Tokyo: Sophia University,1968), p. 25, 188; 日本近代史料研究会編『日本陸海軍の制度・組織・人事』東京大学出版会、1971年、280、359頁;樋口季一郎『アッツ・キスカ軍司令官の回想録』芙蓉書房、1971年、54-84頁;桧山邦祐『『浦潮日報』創立者 和泉良之助』サンケイ新聞生活情報センター、1981年、93、95-96頁;外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房、1981年、156頁、「附録第一」8頁;原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』筑摩書房、1989年、529、548頁;秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会、1991年、373、376、526、596頁; Головнин В. Загадка колчаковского генерала // Эхо планеты. 1992. 39.С.37; 左近毅「ミハイル・グリゴリエフの周辺」『セーヴェル』10、1999年12月、31頁。
  70. Головнин. Указ. соч. С.36.
  71. 外務省外交史料館、日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年、259頁。
  72. Хисамутдинов. Указ. соч. С.13-15; Головнин. Указ. соч. С.34-36.
  73. Хисамутдинов. Указ. соч. С.18. ペトロフの子息セルゲイ・パーヴロヴィチ・ペトロフによれば、ペトロフ一家は上海に来て、そこで写真店を経営したという。 Головнин. Указ. соч. С.39.
  74. Хисамутдинов. Указ. соч. С.18.
  75. 『特高警察関係資料集成』第16巻、269頁。
  76. 『特高警察関係資料集成』第17巻、158頁。
  77. Головнин. Указ. соч. С.39; Латышев И. А. Как Япония похитила российское золото. М.: НТЦ "Техин-формпресс", 1996. С.77-78; ラティシェフ著、伊集院俊隆・井戸口博訳『ロシア金塊の行方』新読書社、1997年、103-104頁。
  78. 『正教時報』23-6、1934年6月、43頁;24-11、1935年11月、38頁。
  79. 『特高警察関係資料集成』第17巻、478頁。
  80. セルゲイ・パーヴロヴィチ・ペトロフによれば、ペトロフ一家は第二次世界大戦勃発とほぼ同時にサンフランシスコへ移住した。金塊の受領証を売却した金を渡航費に充てたという。Головнин. Указ. соч. С.39.
  81. Хисамутдинов. Указ. соч. С.18; 倉田「二つの大戦間の亡命ロシア人社会-在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会-」45頁。
  82. 1998年8月28日に草津温泉町でトルシチョーフ氏から行った聞き取り調査による。Головнин. Указ. соч. С.36.
  83. От Волги до Тихого Океана в рядах белых. 1918-1922 гг. [Воспоминания]. Рига: Изд. М. Дидковского,1930. 253+3 с. с схем. ポーストニコフ編『ロシア人亡命の政治、イデオロギー、生活習慣、研究文献 1918-1945年 文献目録 ロシア在外歴史文書館図書館のカタログより』第1巻、131頁より。筆者未見。
  84. Н. Ф. Федоров и его учение // Кружок русских эмигрантов в Японии (сост.). На Востоке. Непериодический сборник, посвященный вопросам культуры народов Востока. Вып. 1. Токио: "Тайсюдо", 1935. С. 85-101.
  85. Крушение императорской России. 20 лет спустя от февральской революции. Из летописи русской ре-волюции. Харбин: Изд. М. В. Зайцева [Издано при содействии Русского национального общества в Японии], 1938. 158 с. ポーストニコフ編『ロシア人亡命の政治、イデオロギー、生活習慣、研究文献 1918-1945年 文献目録 ロシア在外歴史文書館図書館のカタログより』第1巻、131頁より。筆者未見。
  86. А. С. Пушкин и его время в изобразительном искусстве первой половины 19 века. Л.: Художник РСФСР, 1985.頁付けなし。
  87. トレチヤコフ美術館線画部門の学芸員O. G. プチーツィナ女史のご教示による。
  88. Грабарь И. Э. Илья Ефимович Репин. Монография в двух томах. Т. 2. М.: Государственное издательство изобразительных искусств, 1937. С. 298.
  89. プチーツィナ女史のご教示による。
  90. 国立サンクト・ペテルブルグ大学アカデミー中学校特殊教育リサーチ・センターのE. V. ベロドゥブローフスキイ氏のご教示による。
  91. カナダのカルガリー大学のN. G. ジェクーリン氏のご教示による。
  92. Ванновский А. А. Страничка о русской школе в Токио. Неопубликованная статья. С. 5, 7.
  93. 外務省外交史料館所蔵、特外欧第1488号、昭和14年8月31日付、「無国籍旧露国人ノ来往ニ関スル件」。
  94. 『極秘外事警察概況 第1巻 昭和10年』276頁。
  95. 劇作家益田太郎のペンネーム。
  96. 非売品、図案社、1921年、94頁。
  97. 昭森社、1967年、71頁。
  98. 土曜美術社出版販売、1998年、86頁。
  99. 99スラーヴィナ一家については、鶴見俊輔「山荘に生きる帝政ロシア 亡命貴族三代記」(『太陽』3、1963年8月、154-159頁)、太田正一「森のロシア野のロシア−メーリニコフ・遠い日の夢(二)」(『窓』94、1995年9月、38-43頁)、拙稿「女優スラーヴィナ母娘の旅路-来日白系ロシア人研究-」(『埼玉大学紀要』32-1、埼玉大学教養学部、1996年10月、77-95頁)、拙稿「女優スラーヴィナ母娘の旅路」(奥村剋三・左近毅編『ロシア文化と近代日本』世界思想社、1998年、147-163頁)、中村喜和「ロシア文化逍遥12 詩人コンスタンチン・トロチェフ」(『窓』109、1999年7月、22-25頁)を参照のこと。
  100. Энциклопедический словарь. Изд. Ф. А. Брокгауза и И. А. Ефрона. Т. XXIIA. СПб, 1897. С.543-544.
  101. Белоусова В. В. Моя жизнь и музыка // Таскина Е. П.(сост.) Русский Харбин. М.: Изд-во МГУ, 1998.С.149; 小泉義勝訳「困難な時代を芸術に生きた二人の女性の手記」『セーヴェル』10、16頁。
  102. Белоусова В. В. Моя музыкальная жизнь // На сопках Маньчжурии. 29. Новосибирск, март 1996 г. С.3;Белоусова. Моя жизнь и музыка. С.145-152; 滝波秀子「桜木ゾーヤさんにたどりつくまで」『異郷』1、1998年4月、9頁; Верижская Т. Памяти В. В. Белоусовой // На сопках Маньчжурии. 54. Июнь 1998 г.С. 8; 小泉、前掲訳、13-20頁。
  103. 外務省外交史料館所蔵、外秘第2893号、昭和5年8月20日付、「亡命露人協会代表ノ渡支ニ関スル件」。
  104. ロシア語名は、"Информационное бюро"
  105. ロシア語名は、"Синтоа цусин: Еженедельное русское издание (обзоры японской прессы по русскимвопросам)"
  106. Хисамутдинов. Указ. соч. С.12.
  107. 外務省外交史料館所蔵、特外鮮秘第1559号、昭和6年12月26日付、「白系旧露国人来往ニ関スル件」。
  108. К познанию японской духовно-физической культуры. Дзюудзюцу-дзюудоо // Кружок русских эмигрантов в Японии (сост.). На Востоке. Вып. 1. С.102-115.
  109. Хисамутдинов. Указ. соч. С.16, 19; 倉田「二つの大戦間の亡命ロシア人社会−在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会−」45頁;倉田「1930年代はじめのソ連極東から日本への脱出・漂着者」25頁。
  110. ロシア語では "председатель"
  111. 外務省外交史料館所蔵、外秘第2893号、昭和5年8月20日付、「亡命露人協会代表ノ渡支ニ関スル件」;五外親第14617号、昭和5年8月28日付、「亡命露人協会代表ノ渡支ニ関スル件」。
  112. 外務省外交史料館所蔵、特外鮮秘第1559号、昭和6年12月26日付、「白系旧露国人来往ニ関スル件」;
  113. 夏秋は1892年に東邦協会露西亜語学校に入学したが、まもなく退学。1899年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。その後ロシアに赴き、モスクワを中心に各地を視察、ロシア女性と結婚した。1902年にモスクワで後藤新平と会見し、以後その腹心として日露政治折衝の裏面で重要な役割を果たした。特に後藤の満鉄総裁就任後は、満鉄社外理事格で後藤の親露政策にそって活躍した。1929年の後藤の死後は著述に従事し、もっぱら反共、反財閥を主張した。1908年に『大阪朝日新聞』の特派員としてペテルブルグに赴任した二葉亭四迷と知り合い、彼の病気の世話をしたことでも有名である (十川信介「解題」『近代文学研究資料叢書(5)坪内逍遥・内田魯庵編 二葉亭四迷』所収、日本近代文学館、1975年、19頁)。
  114. 『特高警察関係資料集成』第16巻、268-269、298頁。
  115. 倉田「二つの大戦間の亡命ロシア人社会-在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会-」42頁。
  116. Ванновский. Указ. соч. С.1.
  117. Хисамутдинов. Указ. соч. С.16, 19.
  118. 1998年8月28日に草津温泉町でトルシチョーフ氏から行った聞き取り調査による。
  119. 「露艦将卒パニヒダ」『正教時報』22-6、1933年6月、27頁。
  120. ロシア語名は、"Русское национальное высшее начальное училище имени А. С. Пушкина"
  121. Ванновский. Указ. соч. С.2, 5.
  122. Оргинский Г. Русская школа в Токио // Рубеж; Хисамутдинов. Указ. соч. С. 5.
  123. 「露人小学校定礎式」『正教時報』24-11、28頁。
  124. 『極秘外事警察概況 第3巻 昭和12年』に、本学校の専用校舎が1934年12月に竣工したとある(167頁)のは誤りだろう。「ロシヤ人小学校設立」(『正教時報』24-7、1935年7月、28頁)を参照のこと。
  125. 『極秘外事警察概況 第3巻 昭和12年』167-168頁;『外事警察概況 第7巻 昭和16年』300頁。
  126. ロシヤ学校父母会一同「御挨拶」(プログラム「ロシヤの夕」)。
  127. Мичурин А. П. Токио в дни войны // 8 декабря. Воспоминания и впечатления. Дайрен: Восточное обо-зрение, 1943. С.102.
  128. 倉田「二つの大戦間の亡命ロシア人社会-在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会-」43頁。
  129. 『極秘外事警察概況 第7巻 昭和16年』300-301頁。
  130. 倉田「二つの大戦間の亡命ロシア人社会-在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会-」44、45頁。
  131. 週刊朝日編『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社、1988年、19、31、68、88、111、134、175、176、215頁;『週刊 日録20世紀 1937』2-6、1998年2月17日、21頁。
  132. 『値段史年表 明治・大正・昭和』13、95、124、177、212頁。
  133. 『角川日本地名大辞典 13 東京都』117頁。
  134. 『地籍台帳・地籍地図[東京] 第二巻 台帳編2』5-6頁。
  135. 「プーシュキン百年祭」『月刊ロシヤ』3-5、1937年5月、120-121頁。
  136. 『東京朝日新聞』1937年2月11日、3面。
  137. 『東京日日新聞』1937年2月12日、7面。
  138. 日本近代文学館編『日本近代文学大事典』第1巻、講談社、468頁。
  139. 『報知新聞』1937年2月10日、5面。
  140. 佐藤繁好編『日本のプーシキン書誌(翻訳・紹介・研究文献目録)』ナウカ1999年、78-90頁;国会図書館編『明治・大正・昭和 翻訳文学目録』風間書房、1959年、461-465頁。
  141. 金子幸彦・木村彰一・池田健太郎・川端香男里「座談会〈ロシア研究によせて〉 文学研究の場で」『窓』24、1978年3月、4頁。
  142. 佐藤編『日本のプーシキン書誌(翻訳・紹介・研究文献目録)』64、85頁; Кожевникова И. П. Варвара Бубнова. Русский художник в Японии. М.: Наука, Главная редакция восточной литературы, 1984. С.166-167; コジェーヴニコワ著、三浦みどり訳、江川卓監修『ブブノワさんというひと 日本に住んだロシア人画家』群像社、1988年、227-228頁。
  143. Пушкинские дни в Российском зарубежье. 1937 год // На сопках Маньчжурии. 65. 1999. 頁付けなし。
  144. Ильичев А. В. "Дай нам руку в непогоду . . ." : пушкинский юбилей 1937 года в странах АТР (библиогра-фические заметки) // Россияне в Азиатско-Тихоокеанском регионе. Сотрудничество на рубеже веков:Материалы первой международной научно-практической конференции. Книга вторая. Владивосток:Изд-во Дальневост. ун-та, 1999. С.256-260.
  145. Филин М. Предисловие // Зайцев К. И. (ред.) Пушкин и его время. Альбом автотипий с сопроводитель-ным текстом. Харбин: Типография "Заря", 1938. С.5. イタリック体部分は原文もイタリック体。
  146. Там же. С.7.
  147. Лукашкин А. С. Пушкинские торжества в Харбине в 1937 году // На сопках Маньчжурии. 65. 1999.С.1-3. 1937年のハルビンでのプーシキン関係出版物や各教育機関で催されたプーシキン祭の内容、下記『プーシキンとその時代』刊行後の反響、中央プーシキン委員会のその後の活動については、本論文に詳しい。
  148. Россия и Пушкин. 1837-1937. Сборник статей. Под. ред. Н. Никифорова. Харбин: Изд. Русской Акаде-мической группы, 1937. 139 с. ; Гинс Г. К. А. С. Пушкин и русское национальное самосознание. 1837-1937. Харбин: Изд. "Россия и Пушкин", 1937. XVIII + 70 с. 前者にはハルビン学院教授水谷健行の論文「日本におけるA. S. プーシキン」も収められている。ギンス(1887-?)は法律家にしてハルビン法科大学(Юридический факультет в Харбине)教授。この人物については以下の文献を参照のこと。 Булгаков В. Словарь русских зарубежных писателей. New York: Norman Ross Publishing Inc., 1993. С.37; 内山ヴァルーエフ紀子「哈爾濱・ロシア人住民と文化事業(五)哈爾濱のロシア人学校〈高等教育編@〉」『セーヴェル』10、1999年12月、76-78頁。
  149. Зайцев (ред.). Указ. соч. 216 с. キリール・ヨシフォヴィチ・ザイツェフ(1887-1975)はペテルブルグに生まれ、大学と工業大学を卒業後、内戦に参加。白衛軍敗退後はプラハとパリで数多くの定期刊行物の編集に携わった。1935年にハルビンに移り、ハルビンロシア法科大学政治経済学教授となった。1945年に司祭に叙聖、その後アメリカに移住して、1949年にニューヨーク州ジョーダンヴィル(ユーティカの南東約30キロにある小都市)の聖三位一体修道院で剃髪し、掌院コンスタンチンを名乗った。かの地で雑誌『正教ルーシ』の編集に携わるかたわら、多くの著作を著した。Булгаков. Указ. соч. С.56; Николюкин А.Н. (ред.) Литературная энциклопедия русского зарубежья (1918-1940). Т. I. Писатели русского зарубежья.М.: РОССПЭН, 1997. С.173; Шелохаев В. В. (ред.) Русское зарубежье. Золотая книга эмиграции. Перваятреть XX века. Энциклопедический биографический словарь. М.: РОССПЭН, 1997. С.243-244; 1799-1837: Пушкин и его время. М.: ТЕРРА, 1997. С.427.
  150. Центральный Пушкинский комитет при Бюро по делам Российских эмигрантов в Маньчжурской Империи. 1936年9月4日にハルビンで結成された。Лукашкин. Указ. соч. С.1.
  151. Зайцев (ред.). Указ. соч. С.5-6. 江原綱一については、『昭和人名辞典 第4巻 外地・満支・海外篇』日本図書センター、1987年、「海外」4-5頁、を参照のこと。
  152. 1998年8月28日に草津温泉町でトルシチョーフ氏から行った聞き取り調査による。
  153. 1799-1837: Пушкин и его время. М.: ТЕРРА, 1997. 462 с.
  154. Пушкинские дни в Шанхае. Шанхай, 1937. 109 с. + 62 репродукции портретов и картин.
  155. Пушкину - русский Шанхай // Рубеж. 7. 1937. С.10; 「中ソ文化協会のプーシキン百年祭挙行」『特秘外事警察報』175、1937年2月。復刻版、第48巻、不二出版、1988年、171頁;中山省三郎の写真、『ソヴェート文学』99、1987年4月、4頁;Пушкинские дни в Шанхае // Австралиада. 20. 1999. С.11.
  156. Marc Raeff, Russia Abroad: A Cultural History of the Russian Emigration, 1919-1939 (New York: Oxford University Press, 1990), pp. 95-96; Раев М. И. Россия за рубежом. История культуры русской эмиграции. 1919-1939. М.: Прогресс-Академия, 1994. С.124-125.
  157. 例えば、「プーシュキンに及ぼせるシェークスピヤの影響に関する新論據(霊魂に対する復讐の謎)」、Новые данные о влиянии Шекспира на Пушкина (Загадка мести за душу) 『外国文学研究』1、1923年3月、299-328、21-47頁;岡澤秀虎訳「実現されざりし企図」『文学思想研究』7、1928年6月、401 -433頁;岡澤秀虎訳「運命の鏡-プーシュキンの『エヴゲニイ・オネーギン』-」『文学思想研究』9、1929年6月、357-391頁;岡澤秀虎訳「『エヴゲニイ・オネーギン』の詩の構想とプーシュキンの芸術に於けるその意義」『文学思想研究』11、1930年6月、337-369頁;Зеркало судьбы (Сон Татьяны) // Кружок русскихэмигрантов в Японии (сост.). На Востоке. Вып. 1. С.164-220.
  158. От редакции // Кружок русских эмигрантов в Японии (сост.). На Востоке. Вып. 1. 頁付けなし。
  159. Хисамутдинов. Указ. соч. С.39.